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金髪のヨハネス(「ドイツ・レクイエム」演奏に寄せて)

ヨハネス・ブラームスは、母の死をきっかけに、彼にとって最初にして畢生の大作となったオーケストラ付のドイツ語によるレクイエムを書いたといわれています。もっとも、いつも謙虚でシャイで皮肉好きなヨハネスは、人々からそう関連付けられることを嫌っていました。第5曲こそまだ完成していませんでしたが、作曲家人生で最初の大成功を収めたブレーメンでの「ドイツ・レクイエム」初演時、ヨハネス35歳。その頃の写真を見ると、多少額が上がってこそすれ髪はまだ豊かに波打っています。カラー写真だったら、と想像してみて下さい。彼の髪は輝く金色、目は碧色(ブルー)です。そう、彼は典型的なゲルマンの特徴をもった美青年だったのです。そして、大器晩成の才能がようやく世に認められて、控えめながらも英気みなぎるオーラを放っていたにちがいないのです。だから、「ドイツ・レクイエム」を演奏するとき、晩年のメタボな気難しい白髭爺さんの姿を思い浮かべてはいけないのではないでしょうか。

ここでは、そんな金髪のヨハネスがどんな家庭環境に生まれ育ったのか、あるいは、彼の両親のことなどに思いを馳せみます。


ハンブルク ライスハレ前のブラームス・キューブ
(photo by Fiora 2010.1)

 

父と母
ヨハネスの父ヨハン・ヤコプ・ブラームスは、1806年、北ドイツのホルシュタイン地方のハイデという小村で宿屋兼雑貨屋を営んでいたヨハン・ブラームス(ヨハネスの祖父)の家に二男として生まれました。その父(ヨハネスの曽祖父)は大工でした。音楽家になりたかったヤコプは、生活の不安定を理由に反対する両親に抵抗し、数回にわたって家出までもしたそうです。ついに折れた両親(ヨハネスの祖父母)は、息子を近くの町のヘッベルシュタットに音楽を習いに行かせました。ヤコプはここで5年間修業し、19歳でハンブルクに出ました。ハンブルクでは、ドイツ自由都市の雇われ楽師の元でヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、フルート、ホルンを学び、さらに独学でコントラバスを習得します(注1)。しかし、音楽家としては一向に芽が出ず、港の裏町の居酒屋のバンドでコントラバスを弾くなどしていましたが、1830年には市民兵の吹奏楽団のホルン奏者として雇われます。彼は所謂職人気質で、自らを”楽器演奏屋”と称し、活動としては何かのイベントの際に演奏するといった程度のものでした。だから彼は一度たりとも「芸術家」と名乗ったことはなかったそうです(注2)。

1865年頃のハンブルク・フィル団員写真
赤い●の人物がヨハン・ヤコプ・ブラームス
(Hamburg Brahms Museum photo by GOMI)

ヨハネスの母はヨハンナ・ヘンリケ・クリスティアーネ・ニッセン(1789-1865)と言い、ハンブルクの裁縫師の娘でした。13歳から裁縫の仕事に出、片足が悪いために婚期が遅れ、妹の嫁ぎ先の金物屋で手伝いをしていましたが、教養があり、明るい人柄で、眼の美しい人であったそうです。それはおそらく、ベルゲン出身の貴族という母方の家系に加え、父方も社会的地位の高い家柄だったことに由来するのでしょう。しかし、その両親もすでに亡くなっていたハンブルクでの生活は困窮しており、彼女は実年齢よりも年上に見られるほど地味だったそうです(注3)。

ヤコプはヨハンナの働く金物屋にたまたま下宿をし、二人は出会ってから1週間後に結婚したのでした。1830年6月9日、新郎24歳、新婦は既に41歳でした(注4)。この結婚で、ヤコプはヨハンナの家系の恩恵を受け、ハンブルクでのし上がりたいと考えていたふしがあるようです。実際彼は、その後ハンブルク・フィルのコントラバス奏者になることができました。そして、結婚3年後の1833年5月7日に、二人の長男(第2子)として生まれたのがヨハネスでありました。名前は、父と祖父の「ヨハン」、母の「ヨハンナ」からとられ、立派な音楽家にしたいという父の希望を一身に背負っていました。


ヨハネスが洗礼を受けたことを示す聖ミヒャエリス教会のプレート(左)
(photo by Fiora 2010.1)

 

母ヨハンナは、体調を崩してから1年後の1865年に、心臓発作により突然この世を去ります。ヤコプはその翌年の1866年(ヨハネス33歳)には、41歳の未亡人カロリーヌと再婚します。晩年のヤコプはこの後妻とともに各地を旅行するなど穏やかな日々を送り、1872年(ヨハネス39歳)2月11日に肝臓癌のため死去しました。

 

ヨハネスと母

ヨハネスの読書好きと本の蒐集は有名ですが、それは母ヨハンナの影響といわれます。彼は人生の節目節目に愛情あふれる手紙を母と交わし、心情を共有していたようです。ヨハネスの美しいブルーの瞳はヨハンナから受け継いだものです。また、彼の繊細な精神性や創造性も、母(母方)の気質に由来するようです。これらの性質は父には見られなかったものなのです。

料理上手のヨハンナの作るエッグ・ノック(注5)とクリスマスの鴨の美味しさは有名でした。エッグ・ノックのレシピはクララ・シューマンにも伝えられています。晩年のヨハネスの食卓は、あのメタボ体型を作り上げ、亡くなる原因も作るほどのカロリー摂取量でしたが、幼い頃から肥えた舌を培っていたのでしょうか。

貧民街の家の室内には絵画や花が飾られ、ピアノも、明るい庭もあり、自然の美しさを愛でる精神の余裕も育まれていきました。

ヨハネスは母の自慢で、他の兄弟よりも溺愛されていたようです。後年、ヨハネスともにハンブルクで休暇を過ごした友人(アルベルト・フリードリヒ)の回想(注6)には「朝食はいつも年老いたお母さんと一緒だった。飾らない仕草と、温かい心。話題はいつも息子のことで、~『息子は子供の頃、ブリキの兵隊がやたらに好きで、いくら言っても遊ぶのを止めないの。28にもなって、大事そうに机にしまって鍵をかけているのよ。』」とあります。これに対し、「子供時代の宝物から、離れられるものじゃない」と照れるヨハネス青年。微笑ましいひとこまです。

ヨハネスは、継母カロリーネに対しても、良好な関係を保つことに心を砕き、後年、感動的なまでの心遣いを示したといいます。


父ヨハン・ヤコプと継母カロリーネ
(Hamburg Brahms Museum/ photo by GOMI)

 

ヨハネスと父

ヨハネスは、父が家でコントラバスの練習を始めると遊ぶのをやめて聴くのに夢中だったそうです。父は、自分の練習で聴いた旋律を息子が正しく歌うようになったので、その音楽的才能に気づき、どんな楽器でも演奏出来るようにと3歳からヴァイオリンとピアノ、5歳からチェロの手ほどきをはじめます(注7)。 ヨハネスは、父がフレンチホルンを練習するのもよく聴いていたので、この楽器には特別な愛着を感じていたようです。第1交響曲の第2楽章には、ソロ・ヴァイオリンとホルンのソロによる美しい二重奏がありますし、第2交響曲はホルンの重奏で開始されます。ピアノ協奏曲第2番もホルンのソロで始まりますね。

そしてヨハネスは7歳になるとオットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルについてピアノを学び始めます。また、エドゥアルド・マルクセンの元では作曲も始めています。ドイツ民謡と変奏曲への志向はマルクセンの影響といわれています。

居酒屋でダンス音楽や娯楽音楽を演奏する父について行くようになったのもこの頃でした。その後ヨハネス自身も家計を助けるために演奏するようになります。家計逼迫には父ヤコプのギャンブル好きもあったようで、母は、息子が父親と一緒に酒場で演奏することに反対でした。二人が出入りしていた店は、現在では花街として有名なレーパーバーンだったようですが、ハンブルクのブラームス協会が運営しているブラームス博物館の案内人によれば、よく言われているような、風紀的に劣悪な場末の店ではなく、裕福な商人や知識階級が集うレストランやカフェ、サロンだったはずだといいます。そもそも現在のレーパーバーンといえども、新宿歌舞伎町と比べればはるかに健全だとのことですし・・・。そのようなレストランの一つは、今もアルスター・パヴィリオン(Alster Pavilion)という名前で町の中心ユングフェルンのアルスター湖岸の同じ場所にあり(建物自体は新しい)、地元の人や観光客で賑わっていました。

10歳のとき、ヨハネスは父親の主催した室内楽演奏会にピアニストとして初めて出演します。

ヨハネス曰く、「親父は純朴で、すれていない可愛い爺さんだった。~休みの日には乏しい収入の足しにと写譜をしていたんだが、ある日~オーケストラ・スコアから夢中になってパート譜を作っていた。そこへ浮浪者がやってきて、物乞いをしたのだ。親父は仕事の手を休めずにチラッと彼を見て、ひどいハンブルク訛りで『キミキミ、あげるものなんかないのだから。こんな貧民窟に入ってきてどうすんの。玄関先の取りやすい場所にコートが掛かってるけど、盗っちゃだめだよ。~』浮浪者は出て行ったが、~もちろん、コートも消えていたわけさ。(注8)

ヨハネスは父から頑健な体力と野心、音楽的気質を受け継ぎました。また、内面の興奮や感動を隠したがる北ドイツ人特有の気質も、同じく父のものでした。ドイツレクイエムの1898年のブレーメンにおける演奏会(第5曲を除く)には、クララとその娘のアマーリエ、ブルッフ、ヨアヒムらとともに父も招待されていました。冒頭合唱が「Selig」と歌いだすとクララやヨアヒムは涙を流しましたが、父だけは冷静に聴いており、後日息子の成功をどう思うか尋ねられると、「悪くはなかったね」と言っただけだったといいます。同じような反応ぶりはヨハネスの伝記類を読むと枚挙に暇がないくらい出てきます。ヨハネスは父のギャンブル好きこそ受け継がなかったようですが、子供相手に真剣にゲームに興じる姿や気前よく人に奢る姿は父親譲りなのです。

父と子の関係は父の晩年まで親密だったようです。1866年にはヨハネスは父をウィーンに招待、続いてザルツブルクなどを父子で旅行します。ヨハネスは、「これまでハンブルクを出ることもなく、山を見るのが初めての親父。あの喜びようったら。」(注9)「父との旅行は自分にも久しぶりの高揚や歓喜をもたらしてくれた。父が喜ぶのを見るのはボクの喜びでもある」(注10)と友人へ書いています。また、ヨハネスが同行しなかった旅では、父は日記を書くように息子へ手紙を書き送ったといいます。

 

その他のエピソード

金髪のヨハネス少年に大きな影響を与えた出来事としては、あまり指摘されることはありませんが、1842年のハンブルク大火があります。この時町は4日間に渡って燃え、壊滅状態となりました。ニュースはヨーロッパ中に伝わり、フランツ・リストはチャリティー演奏を行って多大な寄付をしています。「貧民窟」といわれるほどの生家界隈が無事だったはずはなく、火の中を逃げ惑うブラームス一家はどうやって生き延びられたのでしょうか。多感な少年時代の恐ろしい記憶は、一生消えることはなかったのではないでしょうか。ヨハネスの音楽が、いつも老成したような憂愁を湛えているようなのは、こんなところにも原因があるのかもしれません・・・


ヨハネス・ブラームスの生家
(Hamburg Brahms Museum/ photo by GOMI)
※これは様々な本にも紹介されている


生家跡に立つ碑(2010.1)
後方に見えるレンガ造りの建物がかろうじて当時に近い姿をとどめている。

(1)http://blog.zaq.ne.jp/CBUT/category/23/
(2)Karl&Irene Geiringer “Brahms, his life and work”
http://www.nichidokuliederkreis.org/jp/academy/lecture_2004.html
(3)http://www.piano6500.net/brahms.html
(4)Karl&Irene Geiringer “Brahms, his life and work”  母ヨハンナが晩年に息子ヨハネスに宛てた手紙
(5)”Johannes Brahms: life and letters”  著者: Johannes Brahms,Styra Avins,Josef Eisinger
(6)ブラームス回想録集1「ヨハネス・ブラームスの思い出」 音楽之友社 天崎浩二編訳
(7)http://www.piano6500.net/brahms.html
(8)ブラームス回想録集1「ヨハネス・ブラームスの思い出」 音楽之友社  ジョージ・ヘンシェルの回想
(9)ブラームス回想録集1「ヨハネス・ブラームスの思い出」 音楽之友社  友人ディートリヒへの手紙
(10)Karl&Irene Geiringer “Brahms, his life and work” ヨアヒム宛手紙

~2011年4月「ドイツ・レクイエム」演奏(同年6月)に向けて~  Cふぃお~ら

 

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